昭和五十六年一月二十一日 朝の御理解
御理解 第三十四節
此所へ参っても神の言う通りにする者は少ない、皆帰ってから自分の好いようにするのでおかげはなし、神のいう事は道に落としてろひわが勝手にして神を恨むやうなものがある神の一言は千両の金にも代えられぬ難有受けて帰れば土産は船にも車にも積めぬ程の神徳がある心の内を改める事が第一なり神に一心とは逆のない事ぞ。
神の云う通りにする者が少ないと、例えばお参りをさせて貰う。お取次を頂き、お取次を願はしてもらう。お取次を頂いて成る程と例えば感じたならばその成る程これは今までの自分の思い方よりもこれの方が本当だと分かる所からそこを直すなおにすぐに改めていくという事。それが神の云う事を聞くという事だと思うですね。親先生はああおっしゃるけれどもとたとえば過去の自分の知識とか勉強とかいったようなものが出てまいりまして成る程それが本当じああろうけれども、とけれどもを付けたり、それをすうっとこう改めていかない。その辺りの所が結局信心は直心というものが求められるわけなんです。すなおにすすっとより本当からより本当へと本当な所へは入っていく。それを実験する、実行する。
そして成る程本当な事には本当なおかげがとものうていく実験をしながらいよいよ限りなく進めていくのが信心。人間それぞれ思いこみといったようなものがございますけれども、どんなに思いこんでいる事であってもそれがより本当であるとするならそれを改めていくすなおさ又は改めていく為には度胸がいるんです。昨日、一昨日は福岡の高宮の教会でここらあたりの教会の先生が全部集まりまして今度本部の方から見えた先生のお話しを聞く事になって、ここから栄四郎と若先生と二人まいりました。栄四郎はまあ自動車の運転で、いうなら若先生のお供して行ったわけですけれども二人行くっとってよかったなあというて昨日話した事でしたけれど今度百年祭を目指してさまざまな運動とか、又は計画といったものが立てられてゆく中に、教典の再編纂とか又は、奉斎様式の確定する事やらとか、それから大祓、矢津祝詞、拝詞、祈願詞といったものを今まで、あげてまいりましたけれども、それを一掃して、いよいよ本当の金光教的というか、金光教でなからなければ唱えられないような独自の拝詞、祈願詞といったようなものが今度出けました。それは、天津祝詞に替わるものが神徳讃詞ですかね。神徳讃詞。それから大祓に替わるものが神前拝詞をいうわけです。昨日研修が終わりましてからその説明を若先生と栄四郎と二人で修行生の先生方に説明を致しました。
そして自分達が高宮で稽古をしてきたその事をここで二人で皆にやりました。もう私は聞きよってからもう本当にすばらしいと思ったです。成る程もうこれならまあ金光教百年の計といいますかね、本当にどなたがこれを作詞されたから知りませんけれども、すばらしい金光教でなければ表現できない教祖の御教えに基づいたあの神徳讃詞です。これが大祓、天津詔詞にそれから、大祓に替わるものが、神前拝詞という。とにかく内容がすばらしいが調子がね今までの天津祝詞と大祓と同じなんです。もう大祓を上げておるような気持ちでしかも唱えておる事がまあすばらしい祈りの詞ことばというそれも誰でも唱えながら分かるような言葉で綴ってございます。昨日それを聞かしてもろうて全然抵抗がないですね。抵抗がないというよりも有難いです。
だから今日皆さんがあの天津祝詞、大祓、拝詞を奏上されたがもうそれも今日までだなあと思うてね、ちょっと淋しい感じがするんですけれども、これはやっぱり金光教的なものじあないですからね、全然いうならば「親と子と犯せる罪」なんていうのはもうとにかくとんでもない表現が大祓の中にありますけれども、これは意味とか内容じあない。例えばあれは唱詞となえことばであって訳は分からんでも唱えておるという事によって自分の心がこう治まるというか清まるというかね。という修行の為にまあ百年間あげて来たわけですけれども、こうあらためて出けてみるとです本当にやはりこれに改めていく事が本当だという事。それももう抵抗なしに、それには入っていけれる。内容がすばらしい。私は早速昨日これがまあ昨日説明会のようなものでしたから、だったそうですから、あのいよいよその祝詞の本が本部でも今度出けるらしいんです。
だから、それからでもええわけですけれども、本当と分かった、もうそれに改めていかなきぁ出けん。私はなかなかせっかちだからじぁなくてから、もうなんていうでしょうかこれが本当だと思うたらもうその場で切り替えていかなきぁでけない性分です私は。だからもう夕べの中にこれを家で作らせました。
そしてもう早速今日からあの一時の御祈念からいわゆる修行生の先生方ばかりですからあのこれを合楽では使う事に致しました。ですから皆さんも明日の朝は、これに習うはなければならない、もう天津詔詞、中にそら今まであげっけっとるけんで大祓ば、あげるならば大祓ばあげたってんよかろうもん、大祓心行してもよかろうもんという人もありましたけれどもね、いけないもの、本当でないものと分かったら最後、たとえそういうようなあの未練をそれに持たずにね、もう全廃だ、今までの天津祝詞、大祓は全廃で新しいこの拝詞なに切り換えていく。私は云っておるわけですけれどもね。神前拝詞ですから皆さんこれを作りましたから今日は皆さん手元にもこれを一冊づつ頂いて帰られて一つ稽古して下さい。まあそうですね一週間もかかったら覚えてしまうでしょう。
やっぱり時間は同じ時間かかるんです。だから覚えようと思わなければ出けんですハイ。しかもその内容がね意味が分かる言葉で綴ってありますから、覚えよいんじゃないかとこう思います。
月次祭やら何やらも大分だいぶん変わるそうですけれども、やっぱ何と云っても朝晩の御祈念を早速今度の新たな神前讃詞又は、神徳讃詞か、又は神前拝詞というものに切り換えていきたいと思います。今日の御理解を頂いたら一ばん最初の所に、此方へ参っても神の言う通りにする者が少ない。それが本当じあろばってんというてなかなかそれに切り替えていかない。今日私御神前であれは都々逸の文句だったでしょうか。「朝顔は馬鹿な花だよ根も無い竹に命までもとからみつく」とそれを頂いたんです。
だから結局本当なことのどいう事が分かったら、その本当な事にすうすうっとこう切り替えていく、いわゆる改めていくという事が信心には大変大切なんです。
そういう意味で明日から合楽では御祈念を今度の新しい拝詞又は讃詞によって奉仕させて頂きたいと思いますから皆さんもそのおつもりで、皆さんも聞かれたら一ぺんでほろりするごとすばらしいです。内容もですけれどもその調子が、もうすうっと入っていけれるんです。大祓、あげとったような調子で、だからもう大祓と天津祝詞はもう今日を最後にもうあのおあげにならんようにして下さい。それはあげるといつまつでん覚えんです。
だから和行全廃と合楽で云われた時にはもう和行という事はもう和行の和の字も云わんようになったでしょう合楽では、合楽では天津祝詞のあの字も云うちゃならんです。今日の朝の御祈念が最後です。
そしてこの御祈念のあり方、そしてそれの内容に含まれておる尊いというか有難い意味あいをも分からしてもらいながら御祈念がでけることになりますからね。
今日は「神の云う通りにする者が少ない」そこだけを聞いていただきましたね。神様がもうそりあ本部の方ではまあ一ヶ月か何ヶ月か後に、ちょっとこういうような一般にもあのいうなら祝詞本のようなもんが出けるんでしょう。出けちからでもよいという事だそうですけども、本当だとこれに替わるんだというたら今まで嘘のものをあげていたのを本当のものが分かったが最後その場から替えていくのが私はそれこそ本当じあなかろうかと思いますのでね。どうぞそのおつもので一つ稽古、今日皆さん頂いて帰ってあのひとつあげてみて下さい。天津祝詞、大祓と同じ調子でおあげになればいいです。
どうぞ、おかげを頂きますよう。